「見る人よ、何を見ている」
MIZUMA ART GALLERYで4/9まで開催中の鴻池朋子氏の個展「隠れマウンテン」にて、冒頭に記されたこの言葉。
『芸術は見る人とのダイアローグ』と語る鴻池氏の作品には、それを「見てしまった」私たちへ向けられた
インタラクションが用意されている。描かれなかったマウンテンの頂上には何があったのか、
それは私たちの想像力へと委ねられる。
―個展を拝見して、「見る人よ、何を見ている」というステイトメントが印象的でした。
アーティストが作品を作って、個展を開いて見てもらうという往来の流れは、いつもモノローグなんですよ。
作品の意味や答えは作家側にあって、何か裏側に正解があると観客に思わせてしまっている。
私のはじめの仕事は、作品と鑑賞者の関係を開いていって、そうした思い込みをひとつずつ外していく作業なんです。
作品を前にしたとき、作者は不在でいいと思う。
見るものが多様化し、いかようにも見たいものをチョイスできる時代になったとき、
ある程度ストーリーやメッセージを発信側から投げかけてもらった方がわかりやすかったと思うんです。
でも、いま言葉はすべて意味を失ってしまった。仮に、『この絵は自由を表現している』と説明されても、
見る人にとって『自由』という言葉にリアリティがなければ、何の意味もないですよね。
作品と見る人が一対一で何かを感じなければ意味がない。
また、「見る人」というのは作者の私自身に向けた言葉でもあるんです。
自分は何を見ているのかを問いかけ続けています。
―鴻池さんご自身は、これまでどんなものを見てこられたのでしょうか?
絵を描くようになって、それまで気にも留めなかったようなことが見えてくるようになりましたね。
例えば、パーティのような大勢の人がいる場所にいると、目の前で話している人よりも、
端っこでつまらなそうにしている人が気になってしまうんです。
不当な扱いを受けている人に対して何かせずにいられない気分になる。
もちろん、見えてくるもの全てに気になり出すと、バランスが取りにくいこともあるんですけどね。
ただ、何を見ているのかではなく、見えてしまうことが重要な気がしています。
―鴻池さんが描き出す幻想的な世界は、先に明確なイメージをもって描かれるのでしょうか。
描きたい感触がずっとあっても、なかなか形にならないという感覚が強いです。
それが何年間も続くので、モノが形になるまでの時間はきっと人よりもすごく長いと思います。
ただ、描ける状態にまでキャッチできたら、筆は早いですね。
いいと思ってすぐに形にしてしまうとダメになることが多いので、言葉ではない答えがあるんです。
言葉にならない感触がまずあって、それが言葉になるのはずっと後のこと。
大事なことほど、言葉になるのにとても時間がかかります。最近になって、
ようやくタイトルなどもするっと言葉に表せるようになってきました。
絵を描いてきたことも、言葉を喋るために描いていたのかな、と思うこともあります。
―オオカミや山など、自然物をモチーフにした作品が多いですよね。
見えるものはすべて同等です。自然と都会に差異はなく、都会の中にいても深い森を感じるときはあるし、
地上にあるもの、目に見えるものは分け隔てなく見えてくるんです。最も重要なことは、
映像という媒体が登場してから、私たちはバーチャルなものでも共有できるようになった初めての世代ですよね。
現地へ行かずとも、イメージを共有することができる。今回の震災でも、津波という映像を皆が体感しましたよね。
あの地震が起きたとき、まずはじめにテレビが見たいと思ったんです。アトリエにはテレビがなくて、
携帯のワンセグで映像を真っ先に見たんですけど、その自分の欲望に驚きました。
見えている現実への執着や、そのイメージにどれだけ人間は頼っているということに改めて気付かされたんです。
―鴻池さんの新作「隠れマウンテン」を見て、太刀打ちできない巨大な自然と出会ったような感覚を覚えました。
そして、展示の奥に「見る人よ 津波の後に 何を見ている」という言葉が、更にあの体験を印象づけていた気がします。
作品は本当に見る人にとってのものですよね。あれだけの衝撃的な映像を見てしまった後では、
見る人の目は変わらざるを得ない。現実には叶わないということを思い知らされますね。
あの言葉が出て来た経緯は、たまたま一枚の絵を差し替えなければならなくなったとき、
どの絵を置いてもしっくりこなくて、最後に思いついた言葉をその場でタイピングして張ってもらいました。
ひとつの作品を置いたような気持ちに近いですね。今回の個展では奇しくも開催中に地震が来てしまいましたが、
この膨大なエネルギーを転化するためにも、日常に戻るための準備段階をここでしてもらえればと思いました。
また、語り合うための対話の場が必要だと思い、八谷和彦さんを招いたトークショーを個展期間内に開催します。
―今回、被災者支援のためにスタートしたプロジェクト「HUG JAPAN」について教えてください。
絵本を被災地へ贈るプロジェクトです。寄贈した絵本に、それぞれ寄贈した本人とその絵本との出会いや思いを書いた
メッセージを添えたいと思っています。絵本という媒体は、ひとりひとりに公にアートが伝わる
パブリックアートのひとつではないかと思ったんです。言葉が通じなくても、ビジュアルは伝わるし、
見たいときにだけ、開けばいい。元々絵本への思い入れは強かったのですが、
改めてこれはパブリックアートだという認識を得て、感慨深かったですね。
絵だって、単なる絵でしかなくて、薄っぺらくて、現実には決してあらがえない。
それでも、見る人は見てしまうじゃないですか。人間が生きていく上で、最低限の生活に加えて、
絵を描いたり、どうしても見たいと思う衝動や欲望は、動物とは違う、人間ゆえの何かだと思うんです。
直接的に何かを助けるのではなく、ひとつの媒体を通して、何かを抱きしめるように、
インタラクティブに繋がる方法を見つけていくのがアーティストの役目ではないかと思っています。
今、被災地は絵本どころじゃないかもしれないけど、日常に戻ってきたときに、アートが試されてくる気がしています。
そこに、私のアーティストという職業としてのアイデアを出すやり方があるのではないかと。
―今後、鴻池さんが描きたいものは何ですか?
パブリックアートをやりたいです。ホワイトキューブは見たい人が見に来る場所だけれど、
公共な場所では、見たくない人も目についてしまう。それゆえか、今あるパブリックアートは抽象ばかり。
具象的なわかりやすいものを作ってしまうと、街の人にあれはよくないと言われてしまうらしいんですね。
でも、そこにトライする時期になった気がします。
私たちの前の世代はマルセル・デュシャンの時代、概念や意味の時代だったんです。
アーティストがただの便器や棒切れにも意味を与えれば、それが成立していた。
でも日本にとって何が必要なのかを考えたとき、近代に輸入された「アート」という概念ではなく、
もっと根源的なことにぶつかると思うんです。それは、神社や鎮守の森のように、
制御不可能な自然を前に人間が切実な思いで作ったもの、それが日本のパブリックアートの始まりです。
人間が優位な状態で自然を牛耳るのではなく、この天変地異が起きて、四季が移り変わって、
高低差のある土地で、自然の声を聞いて、なんとかやり取りしてきたのが日本人。
その中で、人間が作り出すものをアートと捉えるのであれば、パブリックアートの意味は全く変わってきます。
そこでのアートは、岩を神様の代わりとして、目に見えないものとやり取りをしてきた道しるべに近いんじゃないかな、と。
でも、今の私たちにとって岩ひとつだけでは想像するのが難しいから、どういう形象がいいだろうと考えています。
これだけのことが起きて、確実にアートの見方は変わっていかざるを得ない。もう嘘はつけなくなりましたね。
作品は超個人的で、誰にも入って来られない世界だと思う反面、その深部は誰にでも繋がるという感覚もあります。
こうした状況で、アーティストは、今の言語で語りながら、何を導いていくかが重要なんだと思います。
アートって答えがないんだけど、全てに繋がり、答えてくれる瞬間に出会うこともある。
アートは何かと問われれば、「生きること」です。ご飯の代わりにはなれないけれど、その次くらいに大事なこと、
生き抜くための術なんですよね。そんなことを考えています。
鴻池朋子展「隠れマウンテン 逆登り」
2011年3月9日~4月9日
MIZUMA ART GALLERY
東京都新宿区市谷田町3-13 神楽ビル2F
開館時間: 火曜日から土曜日の11:00-19:00
休廊日 : 日曜・月曜・祝日
HUG JAPAN「ミミオ図書館」では、被災地に送る絵本を募集しています。
http://mizuma-art.co.jp/new/1301477523.php
撮影:natsu
編集: arina